纒向(まきむく)遺跡


大和さくらい100選「記紀万葉ゆかりの地」

「纒向」(まきむく)という名前は明治22年(1889年)纒向村が発足した際、垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものです。 纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡で、現在まで150次以上に及ぶ調査が継続的に行われていますが、発掘済みの調査区は全休の5%に過ぎず、まだ全体を解明するにいたっていませんが、3世紀の国内最大級の集落跡で邪馬台国畿内説の最有力地とされています。

 

纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、発生期の古墳群が存在しています。また農業を営まない集落である事、東海系など他地域から運び込まれた土器が多い事、極めて特殊な掘立柱建物が存在し、高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性がある事などから、日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられています。 

       


纒向地域の古墳 

 纒向地域の古墳には箸墓古墳をはじめ、纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳など発生期の古墳が集中して築造されています。(箸墓古墳、ホケノ山古墳は別途紹介)

 

纒向石塚古墳 国史跡

 太田地区にある纒向石塚古墳は1971年の発掘調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、3世紀初頭の築造とされ、最古の古墳として当時注目を浴びた古墳です。墳丘は纒向型の前方後円墳で全長96m、前方部長32m、後円部径64m、第二次世界大戦中に高射砲陣地設営のため墳丘上部が、埋葬施設とともに削平されている可能性があります。

 

後円部は本来は3段あり、前方部には段築なしで馬蹄形の周濠がめぐります。埴輪、葺石はもたず出土遺物としては弧紋円盤,朱塗の鶏形木製品 などの木製品 や土師器。築造年代は3世紀初頭~中頃と思われます。


勝山古墳

 東田地区の勝山古墳は全長115m、後円部径67m、前方部が東面する前方後円墳で、本来は墳丘全体を巡る馬蹄形の周濠を持っていた事が判明しています。従来は纒向型前方後円墳と見られていましたが、2009年3月の発表で前方部の南東隅が見つかり、全長は115mと確定し墳形も前方部が短い纒向型ではない事が正式に判明しています。 

 

葺石と埴輪はなく埋葬施設は未調査ですが、北側くびれ部付近の周濠埋土中からは多数の木製品が出土しています。築造年代は出土遺物が3世紀前半を主体とするものと、3世紀後半を主体とする一群があり特定されていません。


矢塚古墳

 勝山古墳のすぐ南にある矢塚古墳は纒向型前方後円墳で、全長は96mで後円部はやや東西に長い楕円形で前方部34m、後円部径62mの古墳です。埴輪、葺石はありません。周濠は後円部のみで地形に合わせて前方部に向かう途中で途切れ、後円部南側では堀削直後にブロック状の盛土が築かれていました。

 

埋葬施設は未調査ですが、墳頂に板石が散乱しており、竪穴式石室の存在が想定されています。出土遺物は庄内3式の土師器で、築造年代は3世紀中頃と思われます。

 


東田(ひがいだ)大塚古墳

 大字東田にあるこの古墳は、前方後円墳で全長120m、前方部長50m、後円部径70m前後、前方部を南西に向けています。周濠は前方部では検出されず、後円部のみ痕跡が認められています。墳丘は全て盛土で葺石、埴輪はありません。

 

埋葬施設は未調査ですが、墳丘周辺から芝山産の安山岩の板材が少量採集されており、竪穴式の可能性があります。出土遺物としては濠の中から布留0式期新相期の土器や木製品、外堤から壷棺、籠状製品が検出されています。築造年代は3世紀後半と思われます。